■■■泡沫の夢―6
思わずむしゃぶりついた薄紅を引いたような淡い色合いの唇。こちらの首を掻き抱くように廻してきた両腕が微かな震えを伝えてきた。首筋に触れた肌は思った以上に冷たかった。そして、触れ合った唇でさえもひんやりとした感触。だが、中に舌先を潜り込ませれば、熱くしっとりと潤っていた。絡み合う舌先の感触がたまらない。逃げる様な素振りを見せるその舌先を、勘解由は強く吸い取り、引き寄せた。途端に背中に爪の感触。(やはり…、嫌なのだろうか。…俺の事が)
手先の震えが大きくなって、食い込む指先に力が込められた。もう少し…、と逸る気持ちを押さえつけながら、勘解由は唇を離した。
途端に咳き込む幻之介。だが、その白い肌はほんのりと朱に染まっていた。優しく背中をさすってやれば、そのまま素直に体を預けてくる。瞳はとろんと蕩ける様な色合いに変わっていた。
「今少しだけ…、この夢の中に居させて…」
胸の中に頭を預けながら、幻之介は小さく呟いていた。その表情は、まだ、夢現の様子。
「夢なんかで終わらせねえ…」
そうささやくと、勘解由は再び唇を重ねた。はらはらと、涙を零しながらも、素直さを見せる幻之介であった。耳元をくすぐる様な愛撫にも、嫌を見せないその姿。勘解由はすっかりと、その気になっていた。が、その体を抱きよせた途端に、幻之介の顔が苦痛に歪んだ。
「…痛うっ」
「すまねえ、痛むか。…って、こんなに腫らしちまって…」
幻之介の紫色に腫れ上がった足首に手をかけた。
「ちょっと、我慢しろや」
ぐいっと引っ張り上げた途端に、幻之介からは短い悲鳴が上がった。が、勘解由はお構いなしに己の内着の袖を引きちぎると、それをさらに引き裂いて細長い帯状の物を作り上げた。その布を、きつめに幻之介の足首に巻きつける。ちょうど、八の字を描くように…。巻きあがった時には、幻之介の額からは脂汗が流れていた。
「ちょっと、苦しいかも知れねえが、これなら、殆ど動かす事も出来ねえだろう。…折角治りかけてたってえのに、こんなにしやがって…」
勘解由の言葉は乱暴ではあったが、それは心底心配しての物。幻之介の額に浮かんだ汗をぬぐってやれば、痛みに潤んだ瞳が、見つめ返してきた。
「…御手数をかけまして」
震えを帯びた幻之介の言葉に、勘解由は彼の頭を撫でつけた。それも、殊更に優しく。
「他人行儀な言葉なんていらねえ。…幻之介。…おめえの足、こんなにしたんは、俺の責だあ。頼むから、…どうしても嫌だって言うなら、せめてその足治るまでで構わねえから…」
俺の傍に…、勘解由は小声でそう伝えた。持ち出しの自分の着物を幻之介に羽織らせてやる。体格差の為に、どうしても引き摺る着丈。まるで、おなごのうち掛けの様な有様に、思わず勘解由は苦笑いを浮かべた。
「こうして見ると…、錯覚してしまいそうだな。…分かっちゃいるのになあ。おめえが男だってのはさあ…」
結い上げてもいない髪が、余計に性別不詳に見えさせてしまう。勘解由は、誤魔化すかのように幻之介を勢いよく担ぎあげ、荒駒の上へと座らせた。抗議的な嘶きを見せたのは黒駒。
「黒…、今日は勘弁だな。幻之介のこの足じゃ…、おめえに乗るのは無理だ…」
黒駒に、そう云い聞かせると、自身も荒駒に跨った。ちょうど、幻之介を抱きとめる様な形で、手綱を握る。
不承不承に、黒駒はゆっくりと先を歩く。その歩みに合わせるように荒駒も続いた。
蹄の音に、戻っていた男どもが、庵から飛び出してきた。
「旦那あ、幻のじ…見つかったんですね。よかった…。もう、心配かけねえで下さいまし…。とりあえず、まあ…、中に…。床も、のべてありますし…。それとも、さきに湯殿で流してきやすかい」
それぞれが、黒馬に群がる様な恰好で声を差し伸べてくる。今回ばかりは、さしもの黒馬二頭も、大人しくしている。勘解由の隠れ屋敷に近づくにつれて、胸の中の幻之介の震えも大きくなってきていたのだった。
(…ここに、戻るは…、それほど嫌なのか…)
そんな思いを、溜息にこめて、勘解由は胸元に大人しく納まっている幻之介を覗き込んだ。頬が、紅く色づいている。息が、思った以上に荒く弱々しい。顔を上げさせた途端にぐらりと傾ぐ体。
「って、旦那。見惚れんのは後にして下さいまし。さあ、幻を…、こっちに…」
状況把握は、周りの方が早かったようだった。馬側に詰めた一人から、そう声をかけられるまでは、幻之介の状態に気づくことが出来なかった勘解由なのである。その男に、幻之介を預けると、別の男が、小さな紙切れを渡してきた。
「さっき、使いが置いて行ったんでさあ。…なんか、嫌な感じのする奴でしたが…」
手渡された、紙きれの内容に、勘解由はまた別の溜息を零した。
「なんか、急ぎの知らせかなんかで…」
心配そうに伺い見る男に、苦笑いを返すと、
「…坊ちゃんの、気紛れさあね。…明後日、あっちの屋敷に顔出すから、戻っていろってことなんだろ。」
勘解由は、いつも己の主を「坊ちゃん」呼ばわりする。ここにいる男どもは、その言葉を聞く度に、「また、戦ですかい…」と、心配そうな顔付きで答える。大概の場合、戦がなければ、ほとんど、勘解由はこちらの隠れ屋敷で生活をしている。が、表向きの仕事ともなれば、どうしても本宅の方での用向きが多くなっていく。何日かおきに、墨書き程度の所要をこなすために、本宅の方に顔を出している事を知る、唯一の古参の使用人。繋ぎは、この厩番の男にのみ与えられた役目。言うともなしに、いつの間にかここの連中の束ね役になっている。
「…戦は無え、だろうな。これから冬支度だってえのに…。まあ、どのみち、あっちに詰める事に間違いはねえがな」
「では、今すぐに…」
「いや、明日でも良いだろうよ。…こっちも、気がかりだしな」
すでに運び込まれた、幻之介の方向に視線をむけたまま、まだ騎馬のままの体勢で勘解由は答えた。二人の間は、以前の主従関係を思い起こされる雰囲気に包まれた。用向きの内容を察することのできる人物を前に、今更隠し立てする必要もない勘解由。
「どうせ、本家の連中が唆しでもしてんだろうさ。暇こいて当たり散らす坊ちゃま持て余してなぁ…。いい加減、お役御免にしてくれねえもんかねえ…」
「そりゃあ、無理でしょうが…。旦那様を繋ぎとめる為なら、どんな事でも仕出かしますよう、あの坊ちゃまは…。それに、旦那様の戦働きがあってこそ、お家が今の対面を保っていられるって事は、みんな重々承知の上ですからねえ…」
「だから、好き勝手許すってえか?」
「…お互い、不本意でしょうがね」
嫌なこった、と思った所でどうにもならないのが、今の立場。勘解由とて重々承知の上ではあるのだが、今の気持ちのままで、己の主に対峙する気になれないのも確かな事。
「馬、繋いできますんで…」
と、遠慮がちに下馬を言い渡され、勘解由はそれに従った。握りしめたままの伝令を、そのまま懐に押し込んだ。荒馬二匹に翻弄される男から、一方の手綱をもぎ取る。
「…茂助、わりいが…、後の事は頼むぜ」
「旦那様、それは言わずもがなって事で…。それより、出かけるまでは、幻の氏についてやっておくんなまし。後の事は、こっちでやっておきますんで…」
厩まで来ると、茂助と呼ばれた男は、勘解由にそう言ってきた。
「せめて、一晩くれえ、温めておやんなせえ。熱出して震えてんだからさあ…。」
いつもの様な口調に戻った茂助。外に、誰かを足音を聞きつけての事だったらしい。
「旦那あ、何やってんでえ。…幻の氏、横にしてきやしたぜ。…結構、熱ひどくなりそうでさあ。一応、冷やしては有るんで…、早く行って下せえよ」
「ああ、わりいい…。すまんかったなあ…」
「俺ら、これで引き揚げるんで…」
ああ、と軽く手をあげて、男達にこたえる勘解由。
「みんな、心根は一緒でさあ、旦那様。…皆、あの若者に惚れちまったようでさ。出来れば、ここに居付いて欲しいって思ってんでさ…。まあ、所詮は高値の華って奴ですかねえ…。眺めて…、話して…、それだけで良いって感じの…」
馬の手入れをしながら、茂助が皆の気持ちを代弁するかの様に勘解由に話しかけてくる。
「出来れば、あいつの喜ぶ姿ってのも、拝んでみてえもんですけどねえ」
勘解由を冷かす様なその口調。
「おめえ、煽ってんのかよ…」
「そりゃあ、旦那がどう受け取るかは…、こっちの知ったこっちゃあ有りませんぜ。…まあ、俺らは気にしねえってだけの話しでさ…。好いた相手なら、別に良いんじゃねえんですか…。悶々として、互いに馬鹿しでかすよりもさあ…」
勘解由は、男の言葉に言い返すことも出来ずくるりと踵を返した。図星を指された気まずさもあったのだが、厩を出る際に勘解由は中の男に声をかけた。
「気苦労かけて、すまねえな…。こう言った事ってえのは、苦手でなぁ…」
「互い様でさあ…。本気になって、見えなくなるってえのは、誰にもある事で…。こっち、終わったら、あっしも下がるんで…。まあ、何か入用になったら、声かけてくださいまし…」
視線を合わせずとも、相手の心根が知れる。裏も表も知っているこの男の言葉に、勘解由はいくらか気の軽くなるような思いがした。




